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機械翻訳の結果

巡洋艦ゴトランド 大航海手記集

ゴトランドは1937年から54年まで、スウェーデン海軍恒例の”大航海”担当艦であった。このため、固有乗員以外の訓練生等が多数一時的に乗り込んでいる。WW2前後ということもあり、この航海は多くの参加者の記憶に残っており、インターネット上でも手記を散見することができる。まさに「ゴットランドのデッキに足を踏み入れたことのある多くの人も、懐かしさを覚えています。 これは、訓練船や長距離船として長期間使用される船で起こること」であった。
見つけられたもののうち、艦や航海に関連する部分を年代順に紹介したい。

なお、手記の掲載誌である「FLOTTANS MÄN」は海軍の現役軍人と退役者の互助会である「FLOTTANS MÄN」の会誌。「PEJLINGAR」はFLOTTANS MÄNのヨーテボリ支部の会誌である。

1937-38年

英、セネガルカーボベルデ、マディラ、モロッコ、英
出典:PEJLINGAR誌2016年1号(PDF)
37年秋の徴募兵で、機関兵のようだ。しかし、任務や艦についてはほとんど書かれておらず、ほとんどは寄港地のエピソードである。
「義務演習の後、私は航空巡洋艦ゴットランドで海軍指揮を受ける特権に恵まれました」「私たちのお別れでは、多くの人々や親戚がたくさんの涙を流しました」とあるのは時代か。
ダカールからカサブランカへの航行中、ドイツのオーストリア併合をめぐり緊張が高まる。このため艦内では「私たちが旅をキャンセルしてすぐに帰路に就くという噂が広まりました」。ただし、行程はキャンセルされず、4月に帰国した。
なお筆者は39年8月末に召集され、旧型駆逐艦のウランゲルに配置されている。

1946-47年

ロッコ、ブラジル、コロンビア、米など
出典:FLOTTANS MÄN誌2008年1号(PDF)
編集部の聞き取りによる記事。本人提供の写真が掲載されている。記事でゴトランドについての解説があるが、なぜか防空巡改装の年代が誤っている。
原稿が短いこともあり、やはり訪問地の印象がほとんど。
最初の寄港地はカサブランカであったが、「船長がジブラルタルの岩を見たかったため(地中海で短い航海を行った)」とある。これは別ソースでも記述がある。
また、赤道を通過しているので赤道祭を行っているのと、1846年、フロリダ海峡で遭難したコルベット「カールスクローナ」の追悼式が珍しい行事か。

1951年

ロッコ、伊、ポルトガルジブラルタル、英
出典:PEJLINGAR誌2019年3号(PDF)
この号の前後で掲載されていた連載手記の一部らしい。
大航海中の配置は後部にあったディーゼル発電機室であったが、これは停泊時/緊急時の電力供給用で航海中にやることがなく、仕方なく部屋を磨いて過ごしたという。
どこかの寄港地で同配置者がカメの「カレ(Kalle)」を購入し、発電機室で飼育していた。正規のモノかは不明だが、船員番号999が割り当てられていた。
また、迷惑な同居人として「ゴキブリという密航者が十数人いました」。
ジブラルタルフンシャルマデイラ諸島)間で風速20mを超す荒天のためカッターが流出。傾斜は39度に達した。この最中に、筆者は配食を受け取るため甲板を突っ切らざるを得なかった。この時通ったデッキを「航空機甲板」と呼んでおり、この時期でもなお航空巡時代の呼称が(口語的にであるにせよ)踏襲されていたのが興味深い。また、船首に営倉があったが「人道的理由から」収容者が解放されたとある。
ジブラルタルには英インドミタブルと米海軍が寄港しており、ナイトクラブで3軍将兵が共に「おやすみアイリーン」を合唱し「 3 か国の漂流者、誰もが知っている歌、そしてたくさんの郷愁と憂鬱」が強烈な印象を残したと述べている。

1952年

カナリア諸島ベネズエラキューバ、カナダなど。ハリケーンで装備を損傷、加で修理
出典:PEJLINGAR誌2017年1号(PDF)
カナリア諸島では錨が何かに引っ掛かり、投棄せざるを得ず、ハリケーンのため損傷するなどトラブルが多かった回である。
筆者はプロペラシャフトの保守要員として配置。元航空機デッキのために「非常に長い船尾を持ち、プロペラシャフトが船全長の大部分を占めて」いた*1。このため、4時間のシフトを組んでベアリング(片軸につき11か所)に給油する必要があった。本来給油はパイプを通じて行われるはずであったが、これが損傷していたために、直接バケツで油を指す羽目になっていた。しかしこのバケツにテーブルゲームのコマが落ち込んで油路を閉塞したためベアリングが異常加熱するインシデントに直面。結局機関兵がこれを発見して事なきを得た。
また、南方では船室が暑かったため「非番の時間を甲板で過ごせる人は、基本的に昼も夜も過ごしました。 煙突のそばは完璧な夜のキャンプだった」。

1955-56年

ポルトガルアンゴラ、ガーナ、リベリアカナリア諸島など。最後の大航海
出典:https://alvsnabben.se/got55-66/got55-56.htm ゴトランドの後継として大航海担当艦になったエルブスナベンのホームぺージに寄せられたもの。
寄稿者は当時19歳の伍長でボイラー付きの機関兵として乗り込んでいた。文章は大航海後に発行された文集から抜粋されている。
寄港先の選定が「スウェーデン輸出協会と緊密に連携して作成」されたたため「フランス領コートジボワールアビジャンポルトガルアンゴラルアンダ、英国ゴールドコーストのタコラディ、そしてリベリア自由黒人共和国のモンロビアなど、ここではあまり知られていないいくつかの名前が含まれていた」。特にタコラディは同時期に行われた英女王のラゴス訪問とバッティングしないために慎重に準備されていたという。
また、スウェーデンで訓練を受ける予定のコロンビア人候補生10人が乗り組んでいた。

やはり南方での暑さは厳しく「その条件は、スカンジナビア人の体型やスウェーデンの軍艦の換気システムのどちらも考慮して設計されていませんでした」。機関室は最早サウナで、ラッタルの手すりでやけどを負った。

モロンビアで乗員が交通事故にあい死亡、このため予定が変更されている。
ジブラルタルではスウェーデンに寄港歴がある英駆逐艦母艦のタインがホスト艦で「素晴らしいもてなしが行われました」。

*1:機関がシフト配置されていることも影響していると思われる